朝鮮総連の報道タブー
- 2015/05/06
- 01:49
【約40年続いた、朝鮮総連の報道タブー】
日本における、言論、あるいは報道における「朝鮮総連タブー」あるいは「朝鮮タブー」というものは、戦後、少なくとも約40年以上あったと考えられる。
これはとても乱雑な表現に思われるかもしれない。だが、実際に、在日韓国人や在日朝鮮人の犯罪、あるいは朝鮮総連、民団などの犯罪に対しては、テレビや新聞などでは積極報道しないという自主規制が続いてきた。その経過には朝鮮総連のすさまじい抗議があった。
1970年まではともかくとしても、1980年以降も日本のメディアが、事件や不祥事をきちんと追えない、学者が綿密な研究もできない、という状態があったと言うと、「それは検証できているのか?」などと言う人もいる。新聞はもとより、雑誌、テレビ、学術論文においての常識である。
それは、例えば、週刊文春が2002年の記事タイトルで、あえて、「朝鮮総連(アンタッチャブル組織)の全悪業」と最上級の表現を使っていることを見てもわかるだろう。
あるいは2003年になってですら、週刊ポストが、「朝銀元最高幹部が「2000億円不正融資」を内部告発」という記事を打ったときに、「タブーに挑戦 北朝鮮編」と、わざわざ書くほどだった。
単にスクープではなく、タブーなのである。
1959年創刊の週刊文春であれ、1954年創刊の週刊新潮であれ、1990年までは、朝鮮総連にだけは、ほとんど手が出せなかった。
左翼運動の減退、日本共産党と北朝鮮の断絶、そして1988年3月の日本共産党による、行方不明者に対する質問。梶山静六国家公安委員長による「北朝鮮による拉致の疑い」の回答。ここから朝鮮総連への疑惑が高まり、少しずつだが、メディアもニュースにしなければという意識になっていく。
1988年に田原総一朗の「朝まで生テレビ!」が、「日本、韓国、北朝鮮」を放送。1990年には同番組は、「激論! 日韓新時代と朝鮮半島の平和!!」を放送した。しかしまだ、タブーの状態は続く。
1993年にテリー伊藤が北朝鮮に行き、「お笑い北朝鮮 ―金日成・金正日親子長期政権の解明」という書籍を出版したとき、度肝を抜かれた。「テリー伊藤は、あんなものを出して、よく殺されないな」という僕らの感想があったことは、明確な記憶として残っている。この出版は、タブーを破る一つのきっかけでもあった。
それでも報道において、あるいは出版において、北朝鮮の内情を伝え、あるいは批判することは、まだ厳しかった。
朝日放送の石高健次によるドキュメンタリー番組「闇の波涛から」が放映されたのが1995年5月。この番組こそ、テレビでの、北朝鮮による日本人拉致問題の追求の第一歩だった。
さらに1997年には、同じく、石高による報道スペシャル「空白の家族たち」が突破口を開いた。同年に、石高健次は、「これでもシラを切るのか北朝鮮」(光文社)が出版している。彼は、拉致を追求するだけでなく、在日人たちの立場や生活を視野に入れた番組づくりをしてきた人だ。
1994年の金日成の死去。その翌年から続いた水害による食糧危機による数十万人におよぶ餓死や、1997年からの2万人以上の粛清などののち、2002年に小泉首相と安倍官房長官による交渉で、金正日による日本人拉致の謝罪によって、この「朝鮮タブー」は破られた。このときの安倍の活躍は、極めて評価が高い。
そして、2000年以降は、メディア各社による、朝鮮総連への疑惑追求が本格化し、いわば袋叩き状態になっていく。それを牽制する媒体でさえ、明るみに事実に、戸惑わざるをえなかった。

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