【田原総一朗流のタブーの壊し方】〜
- 2015/04/12
- 02:34
言論のタブーに挑むとは、どういうことか?(1)
【田原総一朗流のタブーの壊し方】
日本におけるテレビ放送の中で、討論を通じて数多くのタブーに挑んだのは田原総一朗だったと真顔で言うと訝しそうな顔をする人がいる。
田原は自分本位であるというような意見と田原がタブーを破ったというのは言い過ぎではないかというような指摘である。
だが『朝まで生テレビ!』のような番組はそれまでは存在しなかった。20代後半のころの僕は、社会常識を覆すような彼の企みに掻き立てられる何かを抑えきれないでいた。
僕が『朝まで生テレビ!』のスタジオに観覧者席に座ったのは、1990年にイラクがクウェートに侵攻して始まった湾岸戦争のころだった。パネリストらが繰り広げる議論に黙っていられなくなり観覧席で手を挙げたのはよかったが緊張して喋れない。TVカメラの前で、僕はただ、クウェートへの侵攻が許せずアメリカの参戦を肯定する危うい青年として片付けられようとしていた。
そのときパネリストの1人が「この若い人の言うことは、こういうことなんだよ」と助け舟を出してくれた。それが野村秋介だった。議論の本筋から脱線し、時間を費やして僕を擁護した。
野村秋介といえば本腰の入った民族派の大物右翼として知られていたから、山口や九州の親戚から「テレビ見て驚いた。いつからあなた右翼になったの?」などという電話がかかってきた。僕の物言いと民族派の主張は、ただならぬ気配に映ったようだった。
野村はその4年前に、フィリピンでモロ民族解放戦線に拉致されたカメラマンへの日本大使館の対応を、無名のカメラマンという理由で見捨てたと怒り、左翼の遠藤誠弁護士や黒澤明、笹川良一らの協力を取り付けて救出した人でもあった。
僕の父親というのは日教組に入っている高校教師だったが「いかなる権威に対しても書けない記事は一行もない人民の言論機関」という触れ込みの極左硬派新聞に原稿を書き、骨身に染み入るような人間小説を書いて解放文学賞を受賞したような人だったから、ノーマルな親類らはそれなりの距離をおいていたものの、その息子が今度は極右か、と驚いたのは無理もないことだった。
僕は野村に尋ねたいことがいくつもあった。だが3年ほどして彼は朝日新聞社に抗議をかけ、あろうことか自分を拳銃で打ち抜いて、帰らぬ人となった。三島由紀夫や野村秋介といった人がやるべきこととは、本当にそれだったのかとの疑念を、僕はいまもって追い払えないでいる。
田原総一朗は、右翼や左翼、政界や財界、識者や学者らを番組に呼んで、生放送のテレビカメラの前で正体を暴くようなやり方をした。
これはまさに田原流の「公開裁判」なのであって、さしずめ田原は裁判官でもある。欧米流のディベートでもない。法による裁判でもない。番組のやりかたに賛同したという点のみで、リングにあがった出演者は、声のでかさに負けたり理屈に負けたりして、あんな番組とリングを降りてから吐き捨てる。レフリーがフェアでないのだと。
しかも公共の電波を使ったこの深夜裁判は、どんな大物であれ、視聴者の好奇心や正義感というような、いやらしい目によって裸にしてしまうのだから、たちが悪い。
それは、なにぶん、それまでの常識ではありえない下品なことだったが、それでずいぶん日本人の口は軽くなった。
田原は悪くも言われる人だが、僕の見方は違った。
日本の報道は、在日、部落、創価学会、天皇制、民団、朝鮮総連という、あらゆるタブーを抱え込み、出すべき事実をも報じることができなくなっていたからだった。
2009年に、僕は自分らの司法雑誌で、12ページの田原総一朗特集を組んだ。「ニッポンは建て前を捨てられるか?」と題して、「彼はファシストか、それとも言論の解放者か」と大仰なリード文を添え、田原の作った番組の軌跡を追った。
田原は、約束の時間の20分も前に来て、礼儀正しく謙虚に振る舞う人だった。「朝まで生テレビ!」の番組からは想像がつかない姿だった。その日、彼はそれまで明かしていなかったテレビの舞台裏について、えんえん1時間半も澱むことなく話し続けた。あらゆる質問に答え何の資料もなく約30年間もの出来事をほぼ正確に語り続けた。
あとで丹念に事実を確認したのだが間違いはほとんどなかった。
まずは、この取材で書いた、天皇制の部分のみを引用しよう。
【天皇問題をテレビで討論、日本のタブーに挑む】
88年秋、入院中の昭和天皇の病状悪化のニュースが駆け巡った、商売を控えネオンを切るなどの自粛ムードが広まり、タブーな空気が日本全土を覆っていく。そのとき田原は自問した。日本人にとって天皇とは、つまるところ何なのか。今こそ天皇論をやるべき時ではないのか。
「マスコミでは、新聞でもテレビでも、公に天皇論を議論するなどというのは、タブー中のタブーだった。前代未聞。それをやろうと。今こそやる。それで天皇の戦争責任までやるべきだと思ったんですね」
田原はその思いを仲の良かった日下雄一プロデューサー(故人)にぶつけた。日下は、すぐにテレ朝の編成局長に『朝生!』で天皇論をやりたいと申し出た。ところが「駄目だ。それだけはやめてくれ」と言われて田原の所に戻ってきた。
「彼(日下)の偉いところで、僕だったらガンガン言ってしまうところを、彼は決してケンカしない。ああ、そうですかと帰ってくる。でもまた2日後に行く。天皇論、やっぱりやったほうがいいんじゃないでしょうか、と。そうすると編成局長は、駄目だと言っただろう、と怒る。すみません、駄目でしたとまた帰ってくる。でも、彼は、また何日かおいて行く。10回ぐらいそれを彼が続けて、編成局長からついに僕のところに電話がかかってきた。何度も日下がうるさいと。どうせこれは田原さんがやらせているんだと思うけど、やっぱり天皇論だけは、絶対だめですよ。タブーに挑戦するなんて言っても、そういうタブーに挑戦するなんていうのは、もう、むちゃくちゃですよと言う」
だが田原も日下もあきらめない。相談した揚げ句に田原が案を出す。
88年9月17日から、韓国でソウルオリンピックが始まっていた。日下は、このオリンピックに引っ掛けて、9月末の「朝生!」のテーマを、「オリンピックと日本人」と書いて2人でそれを眺める。「いいタイトルだ」「いいよ、なかなかいい」「日本人を考えるとやっぱり天皇だね」「よしこれでいこう」と意気投合した。
2人は、早速、編成局長の所へ行き説得にかかる。
「オリンピックと日本人というテーマならどうかと言うと、編成局長は、それはとてもいい、ぜひやろう、と大乗りなんですよ。じゃあそれで行きます。ただし日本人をやろうとすると、どうしても天皇問題をやらざるを得なくなる。そう言うと、編成局長は、えっ、また天皇かと。いやそうじゃない。ただ、話の流れでそうなる可能性もある。でも仮にそうなったときには、生番組だからたとえ編成局長でも途中で止められないですよね。そう言ったら、オレをだます気かと言うので、だます気ではないけれど結果的には、そうなるかも知れない。それなら駄目だと。そこをだいぶ話し合いました。結果的には、編成局長はだまされることを承知でオーケーした」
88年9月末の『朝まで生テレビ!』は、「オリンピックと日本人」というテーマで生放送を開始した。
始まって40分が過ぎたころ、田原は突然、パネリストに向かって、「こんなことをやっているときじゃないだろう、やっぱり天皇がご病気で、みんな自粛、自粛とやっている、天皇がご存命のときこそ、やっぱり昭和天皇論をやるべきだと思う」と発言した。いわば確信犯だ。田原のそんな誘導的な発言に、パネリストはみんな賛成し、討論はいよいよ天皇論に突入する。
「そういうことで天皇論をやり始めたんだけど、みんな天皇論なんて公にやったことがない。みんな怖くてやれない。それで何となくもたもたして、CMになったとき、日下プロデューサーが出てきてパネリストに言うんです。何だ、あなた方が天皇論をやろうと、賛成したので天皇論をやっているのに、皇居をぐるぐる回っているマラソンみたいで、ちっとも(論議が)皇居の中に入っていかないじゃないかと。そういうクレームを出した。CMが終わって本番になると、みんな恐る恐る、です。みんな、すぐには入れない。だって初めてでしょう。天皇論なんてやったことがないわけだから。薄氷を踏む思いでね。でも、こわごわなんですが、一度入ってしまうと、それからはどんどん入っていきます」
こうして「オリンピックと日本人」では天皇論が議論された。
「そのときは大したクレームはなかった。僕はクレームがあっても、どんどん受け入れる。今まで何度もテレビで、右翼の皆さん、言いたいことがあるなら、ぜひテレビ局に来てくださいと言っていますね。来てもらう。それで、出てもらう。そして何でも発言してもらえばいい」
田原や日下の予想通り、視聴率も良かった。
「テレビ局って面白い。あれほど躊躇していたのに放送が無事終わって視聴率もいいと、田原さん、大晦日は、またこれで行きましょうと言ってくる。反対していたのに、またこれで行きましょうと」
同年の大晦日には、天皇論を中心に据えた「激論!!どこへ行くニッポンと日本人」も放送された。
◀ 引用終わり
【野村秋介の天皇観とは?】
かくして「朝まで生テレビ!」で、天皇が討論されたわけだが、この番組のことを、野村は遺作とも言える「さらば群青」(野村秋介著)で、次のように書いている。
【「よく理解されないと困るのは、僕がどうしてマスコミに出たかということです。マスコミが僕を要求したんですよ。野村秋介の意見をみなさんに聞いてもらいたくて出したんじゃないんです。日本は営利主義ですから、あの番組の視聴率を上げるために、かなりきわどいことを言える人間を必要としただけなんです」
「僕が出ているのは単なる当て馬なんですよ。僕が出ていればほかの右翼が文句を言わないだろうという。最初は天皇問題でした。みんなテレビで天皇に文句を言いたいわけです。でも、みんなで文句を言ったら、テレビ局は必ず攻撃されると判断したんです。それでかなり力のある野村秋介を一人入れておけば、どんな攻撃が来ても「野村秋介が入っているじゃないか」と言ってかわせる。それだけですよ」
「はじめ、僕はハードでラジカルな人間だと、みんな思っていたんですよ。ところが、表面上は案外ソフトな人間だと分かったわけ。それで、あれなら使えるんじゃないかということで、暴力団新法とか、ややこしい問題のときだけ、僕は出るんですよ」】
彼は朝日新聞社に抗議に行ったときの内容を、すべて本書におさめて、前述のように自決した。
では、野村は、天皇についてどのような考えを持っていたのか。それも、本書、「さらば群青」(野村秋介著)から引用しておく。
【僕ら民族派は、人間はなんのために生きるのかという問いを、その根底から発しているんだ。そのために、狼煙(のろし)をあげ、民族の将来や、国家の将来を考えているのだと思う。
皆はよく、「天下国家のために」とか、「祖国日本のために」という。しかし、僕は違う。すべては、自分のためにやるもんだと思っている。人のために自刃(じじん)することなんてできっこない。三島由紀夫は、確かに「天皇陛下万歳」と言って自刃した。だが、それは、天皇陛下のためなんかじゃない。自分自身のためにしたことなんだ。ここが行動右翼の人たちにも理解できない。いくら言っても、「天下国家」が出てくる。
僕はよくこんな例を挙げる。ラッシュアワーで、プラットホームにたくさんの人がいて、大混雑しているしているときに、ふらっと倒れるような少女がいたら、起こさないどころか、逆に腹を立てる人が大半だと思う。
でも、僕は起こす。絶対に起こしてやる。そうして「ケガはなかったか」くらいの声は掛ける。そうすると傍の者は、僕がその倒れた少女のために起こしたんだと錯覚する。
でも違う。僕は、僕自身のために起こしたんだ。僕がもし、その倒れている少女を知ってて、知らん振りして通り過ぎてしまったら、僕は必ずそのことを、僕の心の中で重みに思う。もちろん、思わない人もたくさんいるだろうけど、僕は思う。だから僕が倒れている少女を起こした行為は、僕自身のためにやったことだったのが、結局は少女のためにもなったという、ただそれだけのことなんだ。
三島由紀夫が「天皇陛下万歳」と言って自刃したことについて、「彼は天皇陛下のために死んだんじゃないんだ」と僕が言うと、右の者からの反発がくる。もちろん、僕だって、死ぬときは、「天皇陛下万歳」と言って死ぬだろう。彼と同じ局面に出くわせば、「天皇陛下万歳」と言って自刃する。でも、それは、天皇陛下のためじゃない。自分自身のためだ。僕が民族派として生きてる矜持(きょうじ)、誇り、そうしたものを、卑劣なことで穢したくないためなんだと思う。
同じように、僕は友情を絶対に裏切らない。でも、それだってその相手のためじゃない。自分自身のためだ。人を裏切るということは、もっとも卑劣なことだと思っている】
つづく

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- テーマ:テレビ・マスコミ・報道の問題
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