【雑誌記事だけで、何をどう判断するか】〜
- 2015/04/16
- 23:23
言論のタブーに挑むとは、どういうことか?(2)
【雑誌記事だけで、何をどう判断するか】
1994年に、「週刊文春」において小林峻一による「JR東日本に巣くう妖怪』という連載記事が掲載された。
これは、元革マル派の松崎明によってJR東日本が支配されているとする疑惑をルポしたもので、JR東日本が、この記事に対抗してキヨスクで販売を拒否して話題になった。その結果、「週刊文春」が「お詫び」を掲載し和解が成立。これを、一つの言論封殺の事件として記憶している人が多いだろう。
2006年には、今度は西岡研介による「週刊現代」誌上で「テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実」が連載され、さらに書き加えられて「マングローブ」(講談社)が出版された。
もちろん刺激的な話だった。しかし僕は、そういった記事や本に書かれていることを鵜呑みにはできない。
不正を暴くのはいいが、日本の報道は、どちらかの側からの攻めが目につきすぎるからだ。
【JR2労組が激しくぶつかる「浦和電車区事件」とは?】
その3年後の2009年に、僕は、JRの2つの労組がぶつかる「浦和電車区事件」を、双方に取材した。このときすでに、前述の「週刊文春」と「週刊現代」が出ていたので、この「浦和電車区事件」でも、その背後に、極左暴力集団の元革マル派の親分的存在、松崎明が暗躍してアジトから東労組(総連)にマフィアのように指示を出しているのではないか、という印象を持っていた。
JR東日本ユニオン(JR総連加盟)とJR東ユニオン(JR連合加盟)との間で争いが続いていたこの事件は、似たような名前のJRの労働組合でありながら、抗議、非難を繰り返し、まったくもって収集がつかない状況になっていた。
それは、いまでも互いのウェブサイトで主張がされているようにである。
だが、当事者の間ではすさまじいことになっていても、客観的な報道はどこにもなかった。
「革マル」という3文字は、やはり報道タブーである。それは例えば、新聞媒体からすれば、「革マル」が背後にいて怖いというタブーと、「革マル」というレッテル貼りが極度に進むと問題であるというタブーの、両方があったのである。
ことの発端は、2000年に、埼玉県浦和市にある「浦和電車区」でのこと。運転士の吉田光晴(当時東労組の組合員・27歳)が、対立する組合(当時のグリーンユニオン)の組合員も参加したキャンプに行った。
そのことが引き金になり、さらに吉田が組合活動に非協力的で、「国鉄改革を否定する発言を行い、ウソをいうなど反組合的な態度があった」として、東労組関係者は、吉田に集団による執拗な恫喝などの糾弾を行い、吉田は、組合を脱退、退職することになる。
(東労組は、吉田に対して話し合いの中で、ウソなどについて厳しく注意したが、糾弾・脅迫ではなかったと反論している)
吉田から告発を受けた警視庁公安部(東労組は、公安が先に吉田に接触と主張)は、02年11月、東労組の組合員7名を「強要罪」の疑いで逮捕。長期勾留(344日間)して取り調べた。
その後、裁判では、60回におよぶ公判を経て、全員に懲役2年から1年の執行猶予つきの有罪判決を下している。東労組の組合員はこれを不服として控訴。一方、会社側(JR東日本)は、有罪判決を受けて被告6名(被告1名はすでに別件で退職)全員を懲戒解雇とした。これが事件の全容だった。
一見、この事件の争点は、東労組組合員による吉田への人権侵害事件が「あったのか、なかったのか」に見えるかもしれない。
ところがこの問題をより複雑にしていたのは、この事件の背景に「革マルVS公安」という、もう一つの構図があり、さらに「総連VS連合」というともに当時7万人規模の労組の対立。加えて、「総連・東労組VSジャーナリスト」といった闘いもあったからだ。とてもややこしい、のである。
東労組には、カリスマ的な指導力で勤労(国鉄動力車労組組合)を率いてきた(元)革マル派の松崎明が組織した、という歴史があった。その後、松崎が革マルとの決別を表明し国鉄民営化賛成に転じた。その経緯より、松崎は依然としてJR東労組への影響力を持ち続けていたとの観測があった。(連合は、「松崎と革マルは、いまだ一体」と見なしており、総連は、松崎や革マルの関係を否定していた)。
一方、警察・公安当局は、96年以降に、革マル派の非公然アジト15カ所を摘発して押収した資料を分析した結果、総連・東労組内に、革マル派組織の存在を確認したとし、これらの組織に、革マル派が相当浸透している実態を解明した旨を発表。一方で、総連はこれを警察のでっち上げと反発していた。
双方を取材し、僕は僕なりの記事を書いた。それの一部を引用しておく。
少なくとも吉田氏が受けた
ダメージは大きかった
【双方の関係者(東労組と連合)に取材した印象でいうと、今回の事件で矢面に立たされている運転士の吉田氏が、敵対する組合と接する過程で、東労組の組合員から、かなりの不信を持たれるようになり、組合員による吉田氏への指導や説得は、批判や非難、追及へと変わって行った様子が見て取れる。「それは三鷹事件と同様の、吉田氏に対しての革マル的な組織運動による脅しの連続で、重大な人権侵害事件だった」とする連合関係者の言い分は説得力があった。しかしどこまでの人権侵害があったのかについては、双方の資料や映像をもってみても、判断はできず、この事件の難しさを語っている。
ただ、およそ労働組合によっての糾弾は、一般におけるものと違い、吉田氏には相当なダメージを及ぼしたのではないかということは推定できるだろう】
警察・公安による異常な
長期勾留は、明らかな人権侵害
【一方、当局が、東労組組合員7名を逮捕し、300日以上におよぶ「不当勾留」による取り調べや「自白強要」もあり、違法性が極めて高いという東労組の言い分もまた、かなりの説得力がある。
仮に前述のような集団による極めて悪質な脅迫や人権侵害(東労組は否定)があったと仮定しても、暴力を伴わない7名それぞれの言動は、果たして逮捕すべきものであったかという疑問を持つだろう。
しかも、300日以上に及ぶ勾留は、(集団による脅迫があったとしても)なお、無謀である。これがもし許されるのであれば、あらゆる人権侵害の疑いのある、糾弾や喧嘩、イジメなどにおいても、こういった逮捕や勾留、取り調べが可能になるのではないか。
さらに、当局による一連の捜査は、明らかに、革マルのあぶり出し、非公然アジトの解明、革マルへの資金の流れの究明という目的のために行われた疑いが極めて高い。そして、それほどの捜査によっても確固たる革マルの非公然活動を裏付ける証拠を挙げられなかった時点で、当局の捜査は失敗しているのだ。
また、裁判の結果、東労組組合員の7名を有罪とした判決は、唯一の客観性のある司法機関の結論として考慮されなければならないとしても、60回に及ぶ公判で裁判官が次々と代わり、最後の裁判官は、7人の証言すら聞いていないという異常性について訴える東労組の声には、司法関係者も耳を傾けるべきだろう】
個人を破壊する
組合運動でいいのか?
【取材を進めてきて痛感するのは、こういった大労組のはざまで、破壊されていく個人の存在だ。「どの組織に入るかは自由だと思う」(連合資料)という吉田氏は、元来、組織活動には向かない人ではなかったか。
吉田氏も、逮捕された東労組の小黒加久則氏も、ともに70年代の前半に生まれた、いわば安保も全共闘も知らない世代だ。
「入社して、革マルと聞いても、よく分からなかった」(小黒氏)というのも正直なところだろう。そのような世代の彼らが、JR東日本という会社と、大きな労組の間の紛争でつぶされていく。そういうイメージである。
吉田氏や逮捕された7名は、いずれも旧態依然とした労働運動とJR東日本という会社、そして革マルの撲滅を狙う公安捜査のはざまで、大きな犠牲を払っている個人なのだ。
取材に際して、東労組からは、もっぱら警察・公安の逮捕や取り調べに対する悔しさや恨みが中心で、連合や吉田氏に対しての攻撃的な批判が出なかったのは驚きでもあった。
小黒氏は、「警察の拘留中には、もう(外に)出られないかも知れないと思った」と涙を話しながら話す場面もあった。
また連合関係者は、「闘争委員会を設置しての吉田氏への糾弾は、相当ひどいものだった、労働運動はもっと自由であるべきだ」と主張した。
しかし取材の最後に、「東労組の7名の逮捕は、正当であったか、その人権については」との質問に対しては返答に困る様子だった。
勝手な推測は、火に油を注ぐ結果となるだろう。証拠を積み上げた客観的な判断が望まれる。だが、警察や裁判所といった公的機関の判断も、この件においては、さらに頼りない。裁判合戦が繰り広げられているが、裁判外で解決できないものだろうか。
より一般的には、「JR東日本という公共的な機関で、その利権と組合員を奪い合う2つの労組」というダーティなイメージが残るに過ぎない。今これらの労組が、ともに連帯して、貧しい労働者の側に立って強権力と闘い、あるいは平和を実現しているという、かつての印象はどこにもない】
引用終わり
カリスマ的だった指導者、その疑惑の人、松崎明は、2010年2月9日に肺炎のために死亡した。「松崎明さんを偲ぶ会」が3月3日、JR総連・JR東労組主催され、約2000人が参列した。
これで中革派が、求心力をもった時代を終えたともいえよう。
もっとも、革労協の機関誌「解放」は、2011年8月15日の機関誌「解放」で次のように書く。一部をウェブサイトより転載する。
【二〇一〇年十二月九日、反革命革マル最高指導部・松崎明が死んだ。
われわれは同志中原虐殺指令者の一人、松崎の打倒をこの三十四年間追求してきた。松崎は「一九七八年までは革マルだった」と公言し、みずから同志中原虐殺を指令したことをみとめていた。松崎は生涯現役の革マルであり、革マル最高指導部として死んだ。松崎を打倒できないままに死なせたことは〇六年六月、反革命頭目黒田寛一を打倒できずに死なせたことにつづく、プロレタリア革命運動にとっての痛恨の事態であり、われわれはこの悔しさを二・一一報復、革マル解体・絶滅の戦意に変え、全労働署人民にその完遂を誓う。
反革命革マルは松崎の死にさいし、文字どおり一言も発しないという異様な対応をとつている。
革マルは黒田の死にさいしては、個人崇拝の限りを尽くして「地上の太陽」だの「現代のマルクス」だのと喧伝してきた。打倒された革マルに対しては反革命通信に追悼文を掲載してきたが、それ以外の革マル分子の死に対しては一切沈黙してきた。周年ごとの追悼辞もない。
松崎の死に対しても同様だった。革マルは一切言及せず、革マル組織の決定としてすべての革マル分子が沈黙した。これこそ松崎が現役の革マルとして死んだことの証左であろう。
木元グループは、松崎が「革マル中央と組織的に決別」し、「政治組織と位置づけた『国際労働総研』」を松崎派独自の党として作ってきたと言うが、そのデマ性、革マルの「松崎・JR総連革マルは革マルではない」論のお先棒を担ぐ、親革マル、第二革マルぶりが、これで明らかになったとも言える。
本年三月三日、「松崎明さんを偲ぷ会」がもたれた。JR東日本経営陣からは、常務の参列にとどまった。八八年の同じ三月三日に中核派にせん滅された東鉄労高崎地本委員長松下勝の葬儀には、当時の副社長山之内、高崎支社長原山らJR東日本幹部が多数参列していた。これはJR東日本の東労組に対する労政の変化を象徴している。
一水会のファシスト木村三浩が参列し、公安調査庁のスパイ宮崎学が弔辞を読む。「JR総連聞き取り研究会」を組織し「松崎は革マルではない」とデマ宣伝を重ねてきた戸塚秀夫が「松崎は革マルではない」とくりかえすはなから、元外交官の佐藤優が「松崎は黒田の反スタ思想と疎外論は生涯捨てなかった」と「松崎=革マル」論をえん曲に語る。
松崎の死は、松崎-JR総連革マルの総破産のすえの絶望死であった】
機関誌「解放」の引用終わり
極左が転向してなお、影響力を持つタブーもあれば、いまだに内ゲバの怨念を持ちながらの極左タブーもある。
この革労協は、近年、「在日特権を許さない市民の会」に対して、反レイシストの立場から運動をはじめているようだ。
このあたりが新たな火種にならねばいいが…。こういう動きは、まだ報道には出ない。

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